松村堂

気になることは、気にとめる事にしました。

平安京のお勉強に図書館へ

 

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 昨日は、円町にある「京都市中央図書館」に行って来ました。まだまだ残暑厳しい中頑張ってバイクで行きました。最初は車で行こうと考えていたのですが、結果的に周りに駐車場が無くバイクで大正解でした。幸い建物の隣に無料駐輪場がありました。さて今回の目的は、今さらながらではありますが、平安京のお勉強です。正確には京都市中央図書館に隣接されている「京都アスニー平安京創生館」でのお勉強です。当時の町並みを再現した模型と資料それにボランティアの人達による詳しい説明はとても勉強になりました。

 

知らないことばかりの平安京

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 これが当時の復元模型です。かなり精密に作りこまれているので近くに来る機会があれば絶対にみとくべきだと思います。各展示場所にフリーペーパーがあるのでとても助かりました。

 

 

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 どうですこの細かさ!生で見るとホント見入ってしまいます。おまけに専門知識の豊富なボランティアのスタッフが、親切丁寧に教えていただけて、これほど無料に値打ちを感じたのは、始めてかも・・・。

 

 

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 この写真は、平安京の町を東から西に向って撮影したところです。そしてあの山を越えた辺りが僕のお家です・・・。この写真だと瓦のカケラが展示しているあたりですね。

 

 

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 これは、当時の人が履いていた下駄ですね・・・。上のほうに写っているのが木製の靴だそうです。サイズは、どれも非常に小さく靴もサイズ的に23センチくらいしか無かったですね。恐らく当時の人達は、そんなに大きくなかったのかもしれません。僕が思うにだいたい男性成人で150センチくらいだと推測します。

 

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 因みにこんな資料を見つけました。平安時代初期の男性平均身長は161cmでしたが、末期には157cmに。更に時代下って江戸時代になると、人々の平均身長は男性で155cm~156cm、女性で143~145cmと日本史上最も低い値をマークします。これはどうやら動物性たんぱく質の摂取量で変化したとされています。江戸時代には獣肉があまり食べられていなかった事などから動物性たんぱく質が欠乏し、骨の成長の停滞につながったというのです。それに比べて弥生~古墳時代に平均身長が大きかったは、恐らく大陸から渡来人がやって来た事があるようです。元来の日本人より背の高い渡来人の血が加わった事で大きく身長が伸びたと推測されています。また、当時は獣肉に加えてコメを安定して食べる事ができたため、結果として身長が伸びたようですね・・・。

 

 

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 この画像は、豊楽院の正殿の模型です。豊楽殿とは,外国の使者を迎えての宴会,大嘗祭など,国家的饗宴を行う施設だったそうです。東西約46m,南北23m,朱塗りの柱と白壁の華やかな唐風の大建築であり,屋根の大棟の両端に緑釉の鴟尾(しび)をのせ,軒先にも緑釉瓦がアクセントを添えていました。

 

 

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 これは、庶民と貴族の食事です。明らかな差に驚きです。

 

 

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 そりゃ~これでは、大きくなりませんよね・・・。

 

 

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 どうです!貴族の食事。豪華ですよね~。今でも充分ご馳走です。左は、麦とかお米を練って油で揚げたお菓子だそうです。それと右のお膳は、肉に魚にカニまでが、おかずで出てます。一度後学の為に食べてみたいもんですね・・・。

 

 

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 これが鴟尾(しび)です。今でいう鬼瓦ですね。因みに展示してあるのは、瓦屋さんに焼いてもらった原寸大だそうです。これ100%陶器ですよ!こんなのが屋根の上に他の瓦と一緒に乗るんですから当時の建築技術が、いかに凄いか改めて驚かされますね・・・。因みに余談ですが、僕が瓦屋にいた頃この鴟尾の話を聞いたことがありとにかく焼くのがとても難しいといってました。なにせ焼く前は粘土なので、この反っている部分がどうも重みで亀裂が入り、上手く焼けなかったそうです。

 

 

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 これは、どこかの小学校を掘った時に出土した土層です。これも是非、生で見てもらいたいものです。赤くなっている土の部分が「蛤御門の変」の時代の地層です。その当時京都中が、強烈な火事に見舞われたそうです。そう思いながら見ると生々しいでしょ。

 

蛤御門の変
はまぐりごもんのへん

1864年(元治1)7月、京都の長州藩兵と幕府側諸藩兵との戦い。禁門(きんもん)の変ともいう。前年の八月十八日の政変で京都を追われた長州藩では、1864年、京都の公武合体派諸侯の連携が破れ、しかも池田屋事件が起こるに及んで、木戸孝允(たかよし)や高杉晋作(しんさく)らの慎重論は、来島又兵衛(くるしままたべえ)らの進発出兵論を抑えられなくなった。福原越後(えちご)、国司信濃(くにししなの)、益田右衛門介(ますだうえもんすけ)の3家老と来島又兵衛、久坂玄瑞(げんずい)、真木和泉(まきいずみ)らは藩兵と諸藩浪士軍らを率いて上京し強訴したが拒絶され、久坂らの自重論も効なく、世子の率いる本隊が到着していないにもかかわらず、7月19日、伏見(ふしみ)、蛤御門、堺(さかい)町御門で戦闘に入った。来島らは蛤御門に迫ったが、会津、桑名、薩摩(さつま)らの藩兵に敗北、来島は戦死、久坂、真木らは自刃した。この戦いで京都は2万軒余の家が焼ける大火(どんどん焼け、鉄砲焼け)となった。またこれを機に幕府は第一次長州征伐の兵を起こし、長州藩兵の将、3家老7参謀は、その後切腹あるいは斬殺(ざんさつ)に処された。(井上勝生)

 

 

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 これは、八角九重塔の模型です。平安時代の終わり,今の岡崎の地には「勝」の字を含む六つの寺が相次いで建立されたそうです。白河天皇の「法勝寺」にはじまり堀河天皇「尊勝寺」,鳥羽天皇「最勝寺」などです。法勝寺には有名な八角九重塔が建てられていましたが,その遺跡が発掘調査で今の岡崎動物園の観覧車下に見つかったそうです。この詳しい話もボランティアの人からいっぱい聞けますよ。

 

 

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 という訳で、僕にとって平安京は、一度行ってみたい場所のひとつになりました。もちろん生を見ようとすれば、1200年前にタイムスリップしないと無理ですけどね・・・。とにかく時間ができれば、もう一度来たいと思いました。